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きょうちくとうの夏
〜終戦60年、広島・長崎訪問記〜

2005年8月6日から7日にかけて広島を、また同年8月9日に長崎を、それぞれ訪れました。地域の姿をとおして、被爆60周年を迎えた広島・長崎を見つめます。


        (2) 長崎の鐘 −心に架かる、祈りの虹−

  2005年8月9日、長崎はやや乳白色がかりながらも、太陽の光の溢れる夏の青空が広がっていました。稲佐山から見下ろす長崎の町は夏の陽射しの下、とびきりの輝きを見せていました。波穏やかな長崎湾の浦に向い、佇むように展開する市街地は、近世以来の豊かな外来文化に裏打ちされた歴史をまとって、いっそう目映く感じられました。原爆の日の稲佐山山頂は人影も全くなく、輝かしい今日の長崎の町並みの姿が印象強く目の前に展開しています。北東の方向、かすかにたゆたう大村湾から目を転じますと、緑穏やかな浦上の町並みへと移り変わります。長崎湾へとまっすぐに流れる浦上川のラインの両側、三方をゆるやかに囲む丸みを帯びた山々のあわいの空間は今、たくさんの建築物によって充填されています。その中央には、長崎ビッグNスタジアムのスタンドのとなり、テントの張られた平和公園の丘が、浦上天主堂の建物と隣り合うように佇んでいました。60年前のあの日、人類史上“最後”の原子爆弾が炸裂しました・・・。

平和祈念式典に参列後、式場で配布されていた「核兵器のない未来のために<平成17年長崎平和宣言解説書>」という冊子に紹介されていた、被爆建造物が掲載されたガイドマップをもとに、平和公園周辺を巡ってみることにしました。松山町の交差点から南へ向かいますと、程なくして原爆落下中心地を含む「爆心地公園」へ至ります。ここには、原爆で崩壊した浦上天主堂の遺壁(聖堂南側の残骸)をはじめ、原爆で壊された家屋や瓦、ガラスの破片が残る被爆当時の地層などの原爆被害のすさまじさを示す事物が残されています。原爆落下の中心を指し示す碑には祭壇が設けられ、たくさんの花や折鶴が捧げられていました。下の川を渡り、長崎平和の誓いの火のトーチ部分に折鶴を捧げ、長崎原爆資料館へ。資料館内は被爆前の長崎のあゆみ、1945年8月9日の長崎の被害の実情、被爆者の訴え、平和への取り組みなどが豊富な史料と共に展示されています。被害の状況の展示のパートでは、破壊された浦上天主堂や折れ曲がった工場の鉄骨などのジオラマや、熱線を浴び熱傷いちじるしい被爆者の背中の写真、あめのように溶けたガラス瓶など、目を覆いたくなるも決して逃避してはならない、原爆被害の恐ろしさを物語る史料がリアルに並びます。資料館訪問はこれが初めてではありませんでした。2度目となったこの時も、どのような書物であっても、報道であっても、原爆の直截な被害にさらされた生の史料ほど、原爆の悲惨さ、やるせなさ、そしてそのことによる悲しみを強烈に、誠実に表現できるものはないと感じました。この日は祈念式典に参加した人々を含めて多くの見学者で溢れていました。資料館の高台から眺めますと、稲佐山のたおやかな山並みが夏の緑色をたたえ、長崎の町に溶け込んでいるように感じられます。セントポール通りを行き、浜口町の交差点から山王通り方面へ町並みを進みました。夏の日は鮮烈で、通りの両側に屹立するビル群の日陰にあっても汗が滴り落ちてきます。十八銀行の横の路地を歩き、石段を登って、山王神社二の鳥居へと至りました。

稲佐山より浦上を望む

稲佐山展望台より浦上方向を望む
(長崎市稲佐町、2005.8.9撮影)
爆心地公園・浦上天主堂遺壁

爆心地公園・浦上天主堂遺壁
(長崎市松山町、2005.8.9撮影)
山王神社二の鳥居と付近の町並み

山王神社二の鳥居と付近の町並み
(長崎市坂本町、2005.8.9撮影)
山王神社・被爆大クス

山王神社・被爆大クス
(長崎市坂本町、2005.8.9撮影)

1868(明治元)年に創建された山王神社は、爆心地から南東800メートルの位置にあったために社殿が全壊、神社を覆うようにして繁茂していた社叢の木々はなぎ倒され、焼き尽くされました。原爆被害のすさまじさを今に伝える事物として知られる二の鳥居は片方の足を吹き飛ばされ、現在の一本柱の姿となりました。鳥居の傍らには、倒壊した部分の石材も安置されています。改めて目にした一本柱鳥居は多くのアパートや住宅などによって充填された町並みの中にあって、現在でも「あの日」の映像を内包しながら、立ち続けています。山王神社の境内には、原爆により蹂躙された大クスが見事に樹勢を回復し、枝を伸ばしているようすを見ることができます。樹齢400〜500年と推定されている2本の大クスは、空を覆い尽くすように緑の葉を茂らせていまして、その輝かしさ、猛々しさ、みずみずしさには心打たれます。その姿からは限りない慈しみ、慈愛に満ちたやさしさが溢れているように思えてきます。大クスの木の下には、「坂本町民原子爆弾殉難の碑」が建てられてあり、原爆の日、地域の人々による献花・折鶴の奉納が丁寧になされていました。穏やかな緑の傘の下、非業の死を遂げざるを得なかった人々を、大クスが穏やかに見守っているように感じられました。

長崎大学附属病院の下を過ぎ、「医学部通り」と名づけられたゆるやかな街路を歩みますと、長崎大学医学部の諸施設が見えてきます。被爆当時は長崎医科大学のキャンパスであったこの場所では、爆心地から600メートルという至近距離であったこともあり、講堂で学んでいた多くの学生や教職員の尊い命が一瞬にして奪われました。焼け跡からは、教官は教壇で、学生は座席についたままの姿で亡くなっていたという痛ましい史実は広く知られているところで、恐ろしい原爆被害の態様を物語っています。医学部構内においては、犠牲者を追悼する式典が静かに営まれておりました。図書館の裏、坂道を下ったところには、旧長崎医科大学の正門の門柱があります。爆心と反対の方向に傾いたその門柱は、原爆の爆風の威力がどのようなものであったかを雄弁に語りかけていました・・・。

旧長崎医科大学正門門柱

旧長崎医科大学正門門柱
(長崎市坂本町、2005.8.9撮影)
浦上天主堂・被爆した聖像

浦上天主堂・被爆した聖像
(長崎市本尾町、2005.8.9撮影)
浦上天主堂より浦上の町並みを望む

浦上天主堂より浦上の町並みを望む
(長崎市本尾町、2005.8.9撮影)
如己堂

如己堂
(長崎市上野町、2005.8.9撮影)

稲佐山から遠望した浦上天主堂は、平和公園の緑を眺めるように凛とした姿を見せていました。あの日、爆心から500メートルという至近にあったこの聖堂も無残に壊され、信者を中心に甚大な犠牲者が生まれました。赤煉瓦のファサードが鮮やかな聖堂は夏の陽射しを反射して毅然と浦上の街を見守っているように感じます。聖堂の正面には被爆した聖人像が生々しい姿を見せていたり、旧天主堂の双塔に取り付けられていた鐘楼の残骸が残されていたりと、原爆被害の悲惨さを示す事物も残されています。「長崎の鐘」と呼ばれているのは、鐘楼に吊るされていたアンゼラスの鐘(大小2つあったが、小さい金は原爆で焼失、大きいもののみほぼ完全な形で見つかった)のことです。被爆者の救護と平和教育活動に生涯をかけた医学博士・永井隆さんの発案により、復興・生活再建へ被災者を奮い立たせるため、1945(昭和20)年12月24日の被爆の年のクリスマスイブに、その鐘は鳴らされました。博士は長崎医科大学でご自身も被爆し、最愛の妻を失いながらも被災者の救護に献身的に取り組まれました。そして、戦後は闘病生活を送りながらも、平和教育活動などにご尽力され、多くの著作を残されています。博士は晩年を浦上の人々から贈られた2畳一間の家で過ごしました。その家は「如己堂(にょこどう)」と呼ばれています。浦上天主堂からサントス通りを西へ向った一角に位置する如己堂の隣には長崎市立永井隆記念館が併設されています。

再び平和公園に向かいます。平和公園西側には、被爆前までここに位置していた長崎刑務所浦上支所の遺壁が残されています。鮮やかな夏の陽光をいっぱいに含んだ長崎の空を背景に、平和祈念像が座していました。長崎市出身の彫刻家・北村西望の手になるこの像は、天を指した右手により原爆の脅威を示し、水平に延ばした左手により平和を希求し、その目は原爆をはじめとした戦争犠牲者の冥福を祈るために閉じられています。「平和の泉」には、水を求めて死んでいった被爆者の霊に献水を、との思いが込められています。泉の正面には、「のどが乾いてたまりませんでした/水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました/どうしても水が欲しくて/とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」という少女の手記が刻まれた石標が置かれています。像はたおやかな緑が町並みと調和する豊かな浦上の街を見据えながら、長崎の祈りを紡いでいきます。

旧浦上刑務所遺壁

平和公園西、旧浦上刑務所遺壁
(長崎市松山町、2005.8.9撮影)
平和の泉

平和公園・平和の泉
(長崎市松山町、2005.8.9撮影)
平和公園・夏空

平和公園・夏空
(長崎市松山町、2005.8.9撮影)
稲佐山から望む長崎夜景

稲佐山から望む長崎夜景(長崎港方向)
(長崎市稲佐町、2005.8.8撮影)

原爆の日の前夜、稲佐山から眺めた長崎の夜景は、この上のない、すばらしいものでした。街を埋め尽くすあたたかな輝きの1つ1つがいのちのかがやきであり、この街が積み重ねてきた物語のかがやきであり、そして何物にも替え難い平和への祈りのかがやきである、このように感じずにはいられませんでした。このかけがえのないかがやきの1つ1つが世界の人々の心に響き、平和へとつながる祈りの虹へと昇華する時は必ずやって来る。そう確信できる、揺るぎない、誓いのかがやきのように映りました。

(3)終わりに −きょうちくとうの夏− へ続きます。



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