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中国山地を見つめて

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#7 津山市街地を歩く 〜中国山地における一大市街地〜

 中国地方のほぼ中央を東西に貫く中国自動車道は、その全線において主として山間部を進んでいきます。吹屋を後にして新見市経由で中国自動車道を東へと進んでいたときも、高速道路はゆるやかな山並みの中を進んでいまして、こうした地勢を実感しました。そのような特質の中にあって、例外のひとつとなるような市街地が、東へ向かうにつれて出現しました。現在の岡山県北部の旧国である美作(みまさか)国の中心であり、今でもこの地域における中核都市として存立し続けている津山市の市街地です。相対的に標高の高い地域は無いながらも広大な平坦地もまたあまり多くない中国山地の只中にあって、津山盆地は最大級の平地が形成されていまして、自然と美作地域の中心的な地域となったようです。近世以降は市街地中央にある鶴山に築かれた津山城を中心に津山藩の城下町が整備され、現代の津山市街地の基礎が形づくられました。

 津山城のある鶴山から見て北という意味と思しき「山北」地区にある市役所の駐車場に自動車を止めて、市役所を道路を挟んだ北側に広がる庭園・衆楽園(国指定名勝)へとまずは向かいました。津山藩宗家である森家の二代藩主長継が京都から作庭師を招聘して完成させたという衆楽園は、南北に長い池を中心においた池泉式の庭園です。広漠とした津山盆地の彼方にたなびくような中国山地のスカイラインを借景として取り入れるには十分のゆったりとした景観が特徴的です。午前7時から午後8時(11月から3月までは午後5時)まで、無料で開放されていまして、津山市民の憩いの場となっているようでした。

衆楽園

衆楽園
(津山市山北、2007.9.1撮影)
鶴山公園

鶴山公園・城跡の石垣
(津山市山下、2007.9.1撮影)
備中櫓

備中櫓
(津山市山下、2007.9.1撮影)
鶴山公園

鶴山公園南入口の石段
(津山市山下、2007.9.1撮影)

 市役所へ再び戻り、美作高校の西の路地を南下して、鶴山公園(かくざんこうえん)と総称される津山城跡へと向かいました。鶴山は、南に吉井川、東に吉井川の支流である宮川が流下する位置にある独立した丘陵です。1603(慶長8)年、森忠政が美作18万6,500意思に封ぜられ入国し、翌年に美作国統治の上で軍事的にも経済的にも優れた地勢にある鶴山に注目、戦国期に山名氏により城が築かれその後衰微していた同地での築城と城下町建設に着手しました。現在の津山の名は、この際鶴山を津山に改めたものであるのだそうです。近世以降は城跡は公有地となり、石塁の補修や樹木の植栽を行って都市公園として整備、現在は全山に桜が咲き誇る屈指の桜の名所として知られる鶴山公園となっています。

 公園は、現在でも見上げるほどの規模の石垣が残されておりまして、藩政時代の名残を強くとどめています。津山文化センターの横を過ぎ、城跡の西側から石垣を左手に見ながら南側に回りこみますと、公園の入口に至ります。入口からは石段を登りながら、石垣の間の散策路をたどりながら坂道を登って、天守閣跡までの道のりを進んでいきます。天守閣跡の一角には「備中櫓(びっちゅうやぐら)」と呼ばれる櫓が復元されていまして、石垣の佇まいとあいまって、往時の津山城を彷彿とさせます。津山城の建物は1873(明治6)年の廃城とともに取り壊しが決まり、2年余りの間にすべての建物は解体され、公有地(公園用地)として払い下げられたのだそうです。津山城築城(1604年;慶長9年)から数えて400年目の2004(平成16)年に、備中櫓が復元されました。本丸から南に突き出した石垣上に位置する櫓は、城下からもよく見え、天守についでシンボル性の高いランドマークであったようです。内部も藩主及びその家族などごく一部の限られた人物のために整えられた御殿造であったそうで、今回の復元に当たってもそういった内部構造にいたるまで忠実な再現が施されているのが特徴です。
 

俯瞰

鶴山公園より津山市街地俯瞰、中心市街地(南方向)
(津山市山下、2007.9.1撮影)
俯瞰

鶴山公園より津山市街地俯瞰、西方向
(津山市山下、2007.9.1撮影)
城東地区

城東町並み保存地区
(津山市林田町、2007.9.1撮影)
城東地区

城東町並み保存地区の町屋
(津山市勝間田町、2007.9.1撮影)

 備中櫓や、天守閣跡からは、津山の市街地の広がりを一望の下に見渡すことができます。南は吉井川に向かって市街化が進んで、川南に位置するJR津山駅へ向かって比較的密度の高い商業地域が形成されて、津山市の中核地域となっています。市街地は鶴山を中心に四方に展開して、ゆるやかな津山盆地に寄り添うように市街地が郊外まで連続的に広がっている様子が見て取れました。盆地を取り囲む中国山地や吉備高原の山並みもおおらかな表情を呈していまして、市街地の広がりをいっそう穏やかなものにしていました。鶴山公園を出て両側の白壁と石垣とが美しい石段を降りて市街地に出て、出雲街道沿いに展開する城東町並保存地区へと歩みました。中心市街地の東に連なるこの地区は、地域の中心としてのみならず、交通の要衝としても重要な位置にあった津山城下町の姿を今に伝える町屋景観が残されています。市のホームページの説明を借用します。

 なまこ壁や防火用の袖壁・卯建(うだつ)のある古い家が軒を連ねる旧出雲街道沿いの保存地区。約1.2kmにわたり鍵型に折れて続く通りは、敵が侵入してきた際に行き止まりと思わせるための構造だ。だんじりを展示する作州城東屋敷や、幕末の洋学者・箕作阮甫(みつくり・げんぽ)が少年時代を過ごした旧宅、津山の代表的商家であった梶村家の住居、城東むかし町家などが内部見学可能。

 宮川を渡って、鉤の手状にクランクとなった街道筋を進みますと、現代の建築物が多いながらも、ホームページの説明にあるような町屋景観が点在していまして、往時を偲ばせました。市街地に近接しているため自動車の交通量が多いので散策には注意が必要かもしれません。このエリアを訪れる頃には夕闇が迫ってきており、たまたま市役所方面へ進むコミュニティバスに乗車することができたため、バスを利用しながら市役所へ戻り、この日のフィールドワークを終えました。

 美作地域(岡山県北部地域)の中心都市として確固たる基盤を確保した津山市街地の町並みは、市役所で自動車に再び乗り、JR津山駅周辺を回って車内から概観するだけでもしっかりと確認することができました。過疎化や限界集落などといった用語が取りざたされて久しい中国山地の中にあって、地域の活気を下支えする中心都市の役割はきわめて大きいと思います。そういった意味でも、津山の町には今後とも地域の中核として堂々たる姿を見せ続けてほしいと思います。
                                     


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