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点描千葉市とその周辺


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#2 津田沼の近傍 〜閑静な住宅地と、谷津干潟のまち〜

11月30日、前述のとおり京成津田沼駅に到着した私は、JR津田沼駅(主に北口)周辺を彷徨しつつ谷津干潟へ向かい、そこから湾岸の東関東道にほぼ沿うように東へ向かい、幕張新都心を経由して、JR幕張駅に到達するルートを歩きました。

このルートの選定の第一にあったことは、津田沼界隈を感じたかったということでした。そして、そのついでに谷津干潟を見つつ幕張新都心へ向かって新都心の空気に触れて、さらには、JR幕張駅に向かう道筋で「新旧の幕張」の違いをかぎ取れればいいかなという思惑もありました。

丸井やパルコなどのデパートが立地するJRの駅前とは違い、京成の津田沼駅前は都市近隣の比較的穏やかな住宅街の趣でしたし、駅舎自体も「電車に乗れる」ことのみの機能さえ果たせばいいというくらいの簡素なつくりでしたね。ここから、住友大阪セメント住宅の脇を通り、千葉工大前の跨線歩道橋を渡って、JR津田沼駅北側の商店街に進みました。この道のりの間は、習志野市の保全農地なる猫の額ほどの畑があったり、大学キャンパスの豊かな木々があったりと、駅北の繁忙する町並みとは違った落ちつきを感じましたね。それとは対照的に、丸井、パルコ、イトーヨーカドーなどの林立する北口の商店街は多くの人の行き交う活気ある町のように感じられました。この後船橋市域に入って前原地域を歩くことになるのですが、駅南側の落ちつきぶりを勘案すると、津田沼駅の近くは驚くべき密度の街が展開します。この辺り、東京大都市圏の持つエネルギーが、ターミナル駅において局所的に噴出して建物が湧き出しているような、そんな印象を持ちました。さながら、ホットスポットの上にあって活発な火山活動をしているハワイ諸島の趨勢のように。

京成津田沼駅近傍

京成津田沼駅近傍の住宅街
(習志野市津田沼ニ丁目、2002.11.30撮影)
JR津田沼駅北口

JR津田沼駅北口の景観
(船橋市前原西二丁目、2002.11.30撮影)

パルコ内の書店で千葉県内の地誌書を物色した後、北口からまっすぐ成田街道(国道296号線)の方向に進む道を北上しました。東横インのある県道69号線(御成街道、東金方面へと続く道)との交差点では、新京成線の踏切が見え、こんな高密度な商業地の主要道路が踏切によって鉄路で遮断されているというギャップにも接しました。この間にも商業地としての密度はみるみる縮小していき、成田街道に至る頃には、辺りはすっかり閑静な住宅地へと変貌していました。前原地区の景観は、庭木の豊富な個人住宅が基本の、ごくありふれた集落の中に、集合住宅が時折屹立するといったもので、慎ましい佇まいは好感の持てるところです。立地するファーストフード店が看板を低くし、柱を周囲に同化する茶色にして、また店の建物自体も旧家のイメージにして、周囲の集落景観に配慮するデザインにしていたのもあまり例のないことと思われ、関心いたしました。

やがて、総武線を乗り越えて東金街道の分岐点まで到達すると、路傍に「成田山道」と記された道標が建てられていました。それぞれ字体を変えて三面に「成田山道」と書かれた石柱の上に、八角形の輪宝(これは古代印度の武器の一種で、後に仏教に取り入れられ転輪聖王の七宝の一つ)を載せた道標とのことで、高さは約2.5m、明治12年に信成集という講中が建立したものなのだそうです。周囲には建物が多い中にも木々が随所に見られ、かつての街道筋の情緒が垣間見られるすてきな風景でした。

成田街道沿いの景観

成田街道沿いの景観
(船橋市前原西三丁目、2002.11.30撮影)
「成田山道」の碑

「成田山道」の碑
(船橋市前原西一丁目、2002.11.30撮影)

中野木交差点から、国道296号線は南に折れます。この付近は連続立体交差の工事の最中で、船取県道(県道8号線)から幕張新都心の湾岸大通に向かう幹線道路の整備が進められているようでした。この辺りから再び習志野市内に戻って谷津地区(津田沼の「津」ですよね)を進みます。谷津という地名から、高燥な台地を小規模な谷が刻む地勢(当地には庄司が池という沼沢もあったようですね)を連想しますが、現在ではそれを想像し難いほどの住宅地です。国道が京成線を跨ぐ辺りから小規模な坂があり、京成線が並走する千葉街道沿いにまとまった集落があるようなので、このあたりが台地の末端、干潟へ緩やかにつながる低地における集落のもともとの中心であったのかもしれません。途上、目の前に巨大滑り台のごとき得体の知れない構造物が現れて何かと一瞬思いましたが、屋内スキー場「ザウス」の残骸だとすぐに気がつきました。閉鎖後も、解体費用が高くつくため撤去もままならないと聞いていますが、今後はどうなってしまうのでしょうか。

※周知のとおり、2003年8月になって、「ザウス」も解体が始まりましたね。

谷津駅前から京葉道路の下をくぐり続く商店街も庶民的でどことなく愛着が持てます。私が通過した谷津3丁目をはじめ、袖ヶ浦、秋津、香澄と、埋立地につくられた大規模な住宅団地群がこの地域の特色ですね。それともう1つ印象に残ったことは、京葉道路が完全にシェルターに包まれていて、騒音がほとんど聞かれなかったこと。有数の高速道路が団地内を横切っているなんてにわかには信じられないほどに。その一方で、「この先大雨時には冠水に注意」などの表示がいたるところに見られ、埋立地起源の当地ならではの土地柄が窺えましたね。

そして、旧谷津遊園の跡地の谷津公園へ。現在遊園の名残はバラ園に残るのみなのだそうですが、この地では最初に入り浜式塩田がつくられ製塩の地となったあと、大正期の豪雨で修復不可能になった後に現在の京成電鉄がこの地を谷津遊園として開発した来歴が表示板に記されてありました。谷津遊園は、初の日米野球親善野球が行われた谷津球場などともに一斉を風靡するなどの様々な歴史を刻み、昭和57(1982)年に閉園しています。今では、バラ園を中心に緑豊かな公園として整備されており、多くの親子づれが訪れていましたね。

谷津バラ園付近の景観

谷津三丁目付近の景観
(2002.11.30撮影)
谷津干潟

谷津干潟
(習志野市谷津三丁目、2002.11.30撮影)

バラ園を過ぎれば、谷津干潟は目と鼻の先です。周囲が埋立によって団地やらなんやらに造りかえられた中、ここだけがぽっかりとかつての干潟の形状をとどめています。この日も、多くの人たちが干潟の周囲を取り囲む遊歩道に繰り出し、ウォーキングや自然観察にいそしんでおられました。ラムサール条約に指定された、この地域の昔を残す貴重な自然環境としては、すばらしいのかな素直にそう思います。とはいえ、干潟の彼方にJR京葉線の電車が行き過ぎ、団地が連続している様子は異様な光景であると言わざるを得ませんね。開発によって周囲の自然を改変するだけ改変しておいて、そのあわいにかつての当地の現風景を、箱庭のごとく生かしておき、それを愛でる。現在の「持続可能な成長」を指向する中では環境保全のための選択肢の1つと割り切ることはできそうですが、どこかそれは違うという思いもにじみ出ます。しかしながら、谷津干潟自体は貴重な自然環境であることは十分に理解できました。今後も保全していって欲しいと切に思いますね。

京葉道路のさらに海側に設置された東関東道もシェルターで覆われた上、団地との間に十分な緩衝緑地帯も作られて、豊かな住環境の創出への配慮がみられます。並走する国道357号線へは、谷津干潟と海とを繋ぐ2つの水路のうちの東側の水路に沿って進みました。水路には海水が干潟の方向に逆流しているところでした。この干潟に海水を供給する真の海は、東関東道に遮られて垣間見ることすらできません。この地域にとって、海は先のまた先の別世界なのか。臨海部を歩いていながら、そんな感情さえ抱かざるを得ないような空気の中、JR新習志野駅東のメルクス前の道との交差点までの間、国道357号沿いの、人通りの少ない、広い歩道を進みました。


(3)の文章に続きます。

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